部屋の壁に実家を投影して『バーチャル帰省』を試みる

実家に帰省するには交通費と時間がかかるので、実家のリアルタイム映像を部屋の壁に投影することで『バーチャル帰省』をしてみた。我々自身に内面化されてきた実家性の脱構築を通じて「実家とは何か」を問い直す野心的な試みである。

年の瀬だが今年は実家に帰る予定がない。実家が遠いと交通費や行き帰りにかかる時間も馬鹿にならないので、毎年実家に帰るのがおっくうになってくるのだ。とはいえ、「年末なので家族とビールでも飲みながらゆっくり紅白でも見て団らんの時間を過ごしたい」という曲げられない強い想いもある。そこで、部屋の壁に実家のSkype映像を投影して、「バーチャル帰省」をすることにした。図でいうとこういうことだ。

こんなに大きく出すような図でもなかったかもしれない

ちなみにVirtualという言葉は「仮想の」と訳されることが多いが、これは誤訳であり、「実質の」という訳がよりふさわしいのだそうだ。物理的にそこにはいないが、実質上は帰省しているのと同じなので『実質帰省』である。さらに言えば『即時実質帰省システム』であるが、そこまでいくと軍事兵器としてアメリカの国防省に配備されていそうなので今回は単純に『バーチャル帰省』と呼ぶことにする。

「映像だし、しかも人の家」という二重のバーチャル実家体験

やることはだいたいわかった。しかし、部屋の壁に映像を投影するためのプロジェクターはどうするのか。それは心配に及ばない。プロジェクターを個人で何台も持っているメンバーの高田さんがいるのだ。実家に帰省する予定があるというので、プロジェクター1台を貸してもらって、高田さんの実家からSkypeで接続してもらう。高田さんの実家にも当然のように、プロジェクターとスクリーンがある。完璧だ。

お気づきかもしれないが、そうなると接続する先は自分の実家ではない。物理的に帰省するわけではなく、そのうえ自分の実家ですらないとなると二重にバーチャルな帰省だが、バーチャル実家は実家でありさえすれば誰の家でも大して変わらないという割り切ったスタンスが見え隠れする。ゆとり世代の悪いところが出てしまった。

ものすごく近くて、ありえないほど気まずい

壁一面に表示されているほうがよりリアルな「つながってる感」があって良いはずだ。そう思ったので6畳の部屋の壁一面のサイズのスクリーンを買った。(Amazonで2000円ぐらいで売っている)Skypeでビデオ通話をつなぎ、意気揚々と「つながれ!バーチャル実家!」とばかりに投影してみた様子がこちらである。

大きいおばあちゃんに見下ろされる体験

なんというか、圧迫感がすごい。実家というより「悪の組織の幹部と、その手下」みたいな構図になってしまった。団らんどころの騒ぎではない。ヘマをすると床に穴が空いて消されそうな雰囲気さえある。

そして、気まずい。向こうは鍋をつつきながら「近所のお好み焼き屋はまだやってるのか」みたいな年末の実家っぽい話をしているが、その様子と真正面に対峙し続けることには異様なまでの気まずさを感じている自分がいる。それもそのはず、思い返せばこの大きさで目の前にずっと人が居続けることなど日常生活では起こらないのだ。

マイクの性能的にも会話が全て聞き取れるわけではなく、「目の前にいるのに話の内容が理解できない」という状況も気まずさに拍車をかける。実家と繋いだあとはゆっくり本でも読んでいようと思ったが、実家とはこうも落ち着けないものだったか。そのうち、自分たちは本当に高田さんの実家に歓迎されているのだろうか…と不安な気持ちになってくる。

向こうは鍋を食べているのにこちらは何も用意していなかったのも気まずいのではないか。「オードブルを買ってくるから」と理由をつけて一旦退避する。年末のスーパーをうろつく僕の頭にはっぴいえんどの名曲がよぎる。

春よ来い / はっぴいえんど
作詞 松本隆

お正月と云えば 炬燵を囲んで
お雑煮を食べながら
歌留多をしていたものです

今年は一人ぼっちで 年を迎えたんです
除夜の鐘が寂しすぎ
耳を押さえてました

家さえ飛び出なければ 今頃皆揃って
お目出度うが言えたのに
何処で間違えたのか

実家の本質は「テレビ」だった

何処で間違えたのか考えてみたが、どうやら、部屋の壁一面に、しかも自分たちから見て真正面に大きく投影したのが一番の間違いだったようだ。そして、実家にあってこの部屋には不足しているものが一つだけあった。テレビである。

バラエティ番組のVTRとワイプぐらいのサイズ感。安心できる比率

テレビのある部屋に移動して、バーチャル実家をテレビの横に控えめなサイズに投影する。たったこれだけで実家フルネス(実家のようにくつろげるさま)が著しく高まった。自室と高田さんの実家で同じNHK紅白歌合戦にチャンネルを合わせてくつろぐことで、基本的にはテレビを眺めながら食事しつつ、時折番組の演出に突っ込みや皮肉を挟んだりして笑い合うことで会話が発生する空間、すなわち「実家」がここに誕生した。

そう。テレビだったのだ。実家とは「テレビを中心として、その辺縁に立ち上がるコミュニケーションによって規定される共同空間」だったのだ。今まで「テレビ普段あんまり見ないんスよね…」とスカしていた僕だったが、これほどテレビの存在に感謝した日はない。テレビよ、今まで実家をありがとう。

まとめ

「実家に帰ることなく実家にいるような団らんを感じたい」という矛盾した思いから始まった『バーチャル帰省』だったが、「言葉の聞き取りやすさが一体感を得るために実は重要」「映像が大きすぎると逆に日常感が薄れる」「スクリーンが真正面でないほうが落ち着ける」など、思いもよらないところでテレプレゼンス技術に応用可能な知見を得た気がする。

そして擬似的に帰省を生み出そうとすることで「実家とは何か」ということへの深い洞察が得られた。「人間とは何か」を知るために精巧なアンドロイドを作る博士と同じようなことだ。「実家とは何か」と聞かれれば、今後は「実家とは、テレビである」と答えることにしよう。禅問答のようだが、そこにはリアルな実感がある。

東信伍 (コンセプト、文責)
高田徹 (設備、実家提供)